西尾維新の戯言シリーズに取りかかる

「今まで読んでなかったのかよ」と言われれば「申し訳ない」と答えるしかない。
西尾維新佐藤友哉と似すぎている。文体といい、狙いすぎをあえて出す所といい、哲学や博識をひけらかさずにはいられない所といい。あとは作者の自殺願望や劣等感や厭世観を隠そうともしない所か。西尾作品がトリガーなのかは不明だが、彼の作品を引用して自殺した人もいるらしい。
http://d.hatena.ne.jp/emptiness/20071112/p1
まさにポストエヴァとも言える存在だったのだな。
だが勿論西尾維新佐藤友哉ではない。

戯言シリーズの「サイコロジカル」まで読了して感じたのは、彼の作品の魅力はキャククター同士の会話の妙にあるのだという確信。実に諧謔に満ち満ちた彼らのやりとりは、まさに哲学かぶれのニセ自殺志願者にとっては堪らないご馳走だ。一応ミステリの形式は取っているものの、陳腐である。ネットで書評を見ると大抵言及されているようなので繰り返しはしないが。

彼の描くキャラクターは壊れている。無論壊しているから壊れているのが当たり前なのだが、自覚的に壊している事をここまで露骨に見せ付けるのも珍しい。いや、珍しくない。どっちだよ。

今までは珍しかった。だが今ではもう珍しくない。
乙一佐藤友哉と、人の感情が欠落したかのような主人公(には限らないのだが)を描く若手の作家が出てきたからだ。それが主流かと言えばそうでもないのだろうが、稀有な存在ではなくなったのも確かだ。

何故そんな人物造型が見られるようになったのか。宮台風に言えば「大きな物語の欠落」で済ませられるのだろうが、あまり他人の言葉を引用して落着させるのも面白くない。例えそれが当たっていたとしても、だ。詰まらなくとも無理やり自分流の解釈を捻くり出すのが、評論の楽しみなのだから。

飽きたから、だろう。端的に言えば。類型に飽きたからこそ類型を壊すことにした。それが西尾維新だ。新しい事をやりたかった。彼が天才かどうかは評価が分かれる所だろうが、挑戦者であった事には異論はないと思う。

主人公が偽悪者を装った偽善者という複雑怪奇な性格の持ち主である事も、単純な類型に飽きたからだ。作者の自己投影と言ってしまえばそれでおしまいなのかもしれないが。

無論キャラ小説と揶揄と尊敬を込めて呼ばれている通り、キャラが前面に押し出され、その結果、アンチ…とまではいかなくともそのキャラクターに対する批判的な意見もある。

曰く、共感出来ない。
曰く、人間離れしすぎている。
曰く、空虚だ。

当たっている。的中だ。

だがそれこそ彼が狙った効果そのものなのだから、それに対する批判はあまり意味がない。その欠落っぷりこそ新しいのだし、同じように欠落している(と思いこんでいるような)人間の共感を呼んでいるのだ。

共感を呼べば正しいのか。正しいかどうかなど分からない。だが価値はある。その価値がかけがえの無い価値かどうかなどどうでもいい。

ただ、今までの類型のアンチであるが故に、壊す事しかないが故に、神を殺した後に(正確には神が死んでいる事に気づいただけだが)ニーチェが新しい価値を創造せよと呼びかけたのに対し、彼は何も言わないし、指し示さない。ただ無言で壊すだけだ。

壊すものが無くなったらどうするのだろう。とシリーズ途中まで読んで思った次第だ。


戯言だけどね。