壊すふりをしていた西尾維新、直すふりをしていたエヴァ

シンジ君が徹頭徹尾成長しない主人公であるのに対し、
戯言シリーズの主人公、いーちゃんは成長してしまう。


エヴァではシンジ君が成長したかのようなシーンは確かにある。例:『男の戦い』
しかし話数が進むと、彼がただの一時の気分でその行動を取ったに過ぎない事が、くどいほどに描写される。
劇場版を見れば一目瞭然だろう。彼は全く成長などしていない。変化は多少したようだが。
そう、主人公を成長させ、ストーリーを直そう(トラウマを治そう)としているように見せかけていたのだ。エヴァという物語は。


翻っていーちゃんはどうか。彼は壊れていた。
そこに新鮮さを感じていた。既存の枠に囚われない自由闊達な人物像だと思った。
しかし、彼は壊れていなかった。(と、いう事にした)
身近な人の死を経て、彼はなんと成長してしまった。
人でなしの戯言遣いは、ただのいい人、優しい人になってしまった。
斜に構えているけど本当は優しい人、という考えられる中で最も最悪のパターンを選んでしまった。
結局既成の物語を枠を壊していたんだなと思っていたら、実はそれこそが戯言だったというオチ。


戯言遣いは物語を終わらせるために死んだ。殺された。生け贄にされた。火にくべられた。
そこにいるのは、もうただの凡百なちょっぴり陰のあるショタ系美少年の主人公「いーちゃん」だ。


戯言遣い」を愛していた読者は彼の死を悼むだろう。
いーちゃん」を愛していた読者は彼の成長を喜ぶだろう。


つまりはそういう事だ。





と、ここまでを深夜に一気に書いた。
感想リンクなどをざっと見て回って、なるほどと思える分析に遭遇した。

曰く、作者が「成長」したからこそ戯言遣いである主人公も「成長」せざるを得なかった。

これは素直に首肯できる。戯言シリーズの用語辞典『ザレゴトディクショナル』でも作者の西尾維新が主人公の路線を「辛い」と言及していた。それは物語的にという意味だったが、精神的に作者の2重写しである主人公を書けなくなっていたからだとも解釈出来る。


『あの時書いた曲はもう二度と書けないよ。』


西尾風に表現すると、つまりはそういう事か。